モルドバの英雄の一人に、シュテファン・チェル・マーレ(シュテファン3世)という人物がいます。
シュテファン・チェル・マーレはモルドバ人の誰もが知る人物で、首都キシナウの公園や通りにも彼の名前が付けられています。
それでは、シュテファン・チェル・マーレとはどのような人物なのでしょうか。
本記事では、シュテファン・チェル・マーレについて詳しく紹介していきます。
1シュテファン・チェル・マーレとはどんな人物?
シュテファン・チェル・マーレは14世紀頃に活躍したモルドバ公国(現在のルーマニアとモルドバ)の王様です。
彼は、政治家、外交官、軍事指導者としての優れた資質を発揮し、モルドバ公国の繁栄に大きく貢献しました。
現在のモルドバを訪問すると、一度はシュテファン・チェル・マーレの名前を耳にします。
首都キシナウには、シュテファン・チェル・マーレ公園や記念碑が建てられており、市民から親しまれています。
そして、モルドバの地方都市でも、街路や公園に彼の名前がつけられています。
キシナウにあるシュテファン・チェル・マーレ公園。市民の憩いの場になっている。
また、シュテファン・チェル・マーレの功績を讃えて、モルドバの全ての紙幣(leu)に彼の肖像が描かれています。
このように、シュテファン・チェル・マーレは、モルドバ人にとって重要な人物であり、モルドバの象徴的な存在として親しまれています。
2シュテファン・チェル・マーレの功績
シュテファン・チェル・マーレは、1433年頃、モルドバ公子ボグダン2世の子として生まれました。
シュテファン・チェル・マーレは1457年に、従兄弟であるイワラキアのヴラド3世(ヴラドツェペシュ)の助けを借りて王位を獲得します。ちなみに、ヴラド3世はドラキュラのモデルになった人物です。
シュテファン・チェル・マーレの治世は、1457年から1504年まで続きました。半世紀にわたる彼の支配下で、モルドバ公国は最盛期を迎えました。
また、この時期は軍事的にも最盛していた時期であり、国の防衛システムの構築が最も進みました。
中世ヨーロッパは軍事紛争が多い時代であり、モルドバ公国もハンガリー王国、ポーランド王国、オスマン帝国の侵略を受けました。
モルドバ公国は、周辺諸国からの侵略を受けたものの、シュテファン・チェル・マーレの活躍で幾度となく国の防衛に成功しています。
特に、1474年にオスマン帝国の侵攻からの防衛に成功したのも、シュテファン・チェル・マーレが国の防衛に注力し、強固な軍事要塞を構築していた結果と言われています。
そして、シュテファン・チェル・マーレは、翌1475年のオスマン帝国とのバスルイの戦いの勝利により、ヨーロッパで有名になりました。
シュテファン・チェル・マーレが王位に就いていた47年間で、36回の戦争(防衛を含む)を経験しました。その戦績は、36回の戦争のうち34回も勝利するという驚異的な戦績でした。
中世ヨーロッパは通常、軍事紛争の時代という印象が強いです。しかし、その軍事紛争の時代にあったとしても、シュテファン・チェル・マーレのモルドバ公国は、平和の時代として認識されています。
何度か周辺諸国からの侵略を受けたものの、国の平和を維持できたのは、シュテファン・チェル・マーレが、カトリック教会、西側諸国、イスラム教の国々と友好的な関係を築き、高い外交能力を発揮していたからです。
多くの功績を残したシュテファン・チェル・マーレは、1504年7月2日に死去しました。その後、モルドバの公位は、息子のボグダン3世独眼公が継承しました。
シュテファン・チェル・マーレは、ルーマニア正教会に多数の教会・修道院を献じたことでも知られています。
その一つであるプトナ修道院は、モルドバにおいて文化・芸術・宗教面で重要な修道院です。シュテファン・チェル・マーレの墓所は、このプトナ修道院の内部に設けられています。
3モルドバに行った時はシュテファン・チェル・マーレに注目しよう!
シュテファン・チェル・マーレは、モルドバの歴史上で最も重要な人物です。
彼の功績を讃えて、紙幣に肖像が描かれたり、モルドバの街の通りや広場に彼の名前がつけられています。
モルドバに行った時は、ぜひシュテファン・チェル・マーレの名前に注目してみてください。