バーニー・バラバン(1887〜1971)は、モルドバ系移民のアメリカの映画会社の経営者で、1936年から1964年までパラマウントピクチャーズの社長を務めました。
バーニー・バラバンが映画業界に携わった中で、アメリカの映画界に多くの革新をもたらしました。
本記事ではバニー・バラバンについて詳しく紹介します。
1バーニー・バラバンの功績
バーニー・バラバンはモルドバ系移民のオーガスタ・ガッシー(旧姓メンデバウスキー)と食料品店オーナーのイスラエル・バラバンの間に7人兄弟の長男として生まれました。
彼の兄弟は順番に、AJ、リア、アイダ、ジョン、マックス、デイブ、ハリー、エルマーでした。
バラバンは1908年まで、メッセンジャーボーイや冷蔵倉庫会社の社員として働いていましたが、21歳の時に映画館で働き始めました。
1945年の『フォーブス』誌に掲載された記事の中でバラバンの母は、彼が映画館の仕事から帰ってきて開口一番に「映画館に来る客は、どんな映画か分からないのに観る前にお金を払うんだ!映画のビジネスは夢がある」と言ったと証言しています。
バラバンと弟たちは、100席のケジー・シアターを借りて映画ビジネスを開始しました。そこからバラバンの生み出した革新的な技術が、映画業界を変えていくことになります。
1910年、バラバンはバルコニーを備えた最初の映画館であるサークル・シアターを建設しました。当時はバルコニーを備えた映画館は珍しかったので、多くの人々を驚かせました。
そして、妹のアイダがサム・カッツ(1892-1960)と結婚すると、義兄弟と一緒に中西部に映画館チェーン「バラバン&カッツ・シアター・チェーン」を計画するなど、事業の拡大を図ります。
バラバンの兄弟であるジョン、デイブ、エイブ、マックスの4人は、バラバン&カッツでバラバンと共に働きました。
また、バラバンの兄弟のエルマーとハリーは、バラバンとは別にH&Eバラバンという自分たちの劇場会社(演劇)を経営していました。
1917年にチェーンの第一号である、シカゴのセントラルパークシアターがオープンしました。
その後、バラバンとカッツは、初のエアコン付き映画館を作ることに着手しました。彼らが作った最初の映画館用のエアコンは、ウォッシュタブに入れた氷に大きな扇風機の風を当てるものでした。バラバンは、友人のエンジニアの助けを借りて、実用的なシステムを作り上げました。
これにより、夏の間に暑さから逃れるために大勢の人々が映画を観に行くようになり、映画上映は年間を通じてのビジネスになりました。
順調に収益を上げ続けたバラバン・アンド・カッツ・チェーン(B&K)は、1923年に法人化されました。そして、1926年にはフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー社に約1300万ドルでバラバン・アンド・カッツ・チェーン(B&K)を売却しました。
1936年7月2日、パラマウントピクチャーズの取締役会は、ジョン・E・オッターソンの後任としてバラバンを社長に選出しました。
バラバンは1964年までパラマウントピクチャーズの社長を務めました。 社長を退いた後、1966年にパラマウントピクチャーズがガルフアンドウエスタン社に買収されるまで会長を歴任しました。
そして、映画界に多くの功績を残したバニー・バラバンは、1971年3月7日に83歳で亡くなりました。
2バーニー・バラバンの家族
1929年、バラバンはティリー・ウルコフと結婚し、3人の子宝に恵まれました。
バート・バラバン(映画プロデューサー兼監督)
ジュディス・バラバン(女優兼作家)
レナード・レッド・バラバン(アメリカのジャズチューバ奏者でスーザフォニスト)
上記のように、バラバンの子供たちもまた多方面で活躍しました。
3まとめ
モルドバ系移民の母をもつバーニー・バラバンは、若い頃から映画ビジネスに従事し、自らの事業を拡大してきました。
彼の革新的なアイデアや技術は、アメリカ映画界の常識を覆し、映画を年間を通したビジネスに変えました。
そして、その功績が評価されてパラマウントピクチャーズの社長と会長を歴任しました。
モルドバにルーツを持ったバーニー・バラバンが、アメリカ映画界に大きな革新を与えたことをぜひ覚えておいてください。